小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌
2021年10月9日(土) - 11月28日(日)
展示概要
小早川秋聲[こばやかわしゅうせい/本名・盈麿(みつまろ)/1885-1974]は、大正から昭和にかけて、京都を中心に活躍した日本画家です。鳥取の光徳寺住職の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都の東本願寺の衆徒として僧籍に入りました。その後、画家になることを志し、日本画家の谷口香嶠(こうきょう)や山元春挙(しゅんきょ)に師事、文展や帝展を中心に入選を重ね、画技を磨きます。また、旅を好んだ秋聲は、北海道、山陰、紀州など日本各地を絵に描き、国外では複数回の中国渡航に加え、1922年から23年にかけてアジア、インド、エジプトを経てヨーロッパ十数ヵ国へ遊学。1926年には北米大陸を横断し、日本美術の紹介にも努めました。やがて、従軍画家として戦地に何度も赴くようになり、数多く描いた戦争画のなかでも代表作に挙げられる《國之楯(くにのたて)》は深く印象に残る1点です。本展は、初期の歴史画から、初公開の戦争画、晩年の仏画まで、百余点で小早川秋聲の画業を見渡す初めての大規模な回顧展となります。
主催
東京ステーションギャラリー[公益財団法人東日本鉄道文化財団]、BSフジ、ライブエグザム
特別協力
京料理 濱登久
協力
日南町美術館
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/pdf/comic_202110_kobayakawa.pdf◆小早川秋聲(こばやかわしゅうせい)
1885年、現鳥取県日野町にある光徳寺の長男として生まれる。以降、9歳まで母の故郷である神戸で過ごす。
1894年、京都・東本願寺の衆徒として僧籍に入る。
1901年頃、京都の日本画家・谷口香嶠に師事する。
1905年、一年志願兵として騎兵連隊に入隊、日露戦争に見習士官として従軍する。
1909年、京都市立絵画専門学校に入学するが、まもなく退学。東洋美術研究のため中国に渡る。
1914年、第8回文展に初出品する。翌年、師・香嶠を亡くす。
1916年、京都の日本画家・山元春挙に師事する。
1918年から2年半余りかけて、山陰、南紀、北海道を巡歴。3冊の画文集を刊行する。
1920年、年末に神戸から出航し2年半にわたり外遊。計17ヵ国を巡る。
1926年、要請を受けて日本美術の紹介をするため渡米。講演や個展を行う。
1930年、第11回帝展に《愷陣》を出品、推薦(永久無鑑査)となる。
1937年、日中戦争に際し、東本願寺の委嘱を受け慰問使として従軍する。
1943年、陸軍によりビルマに派遣され従軍。翌年には代表作《國之楯》を完成させるが、陸軍に受け取りを拒否される。
1945年、太平洋戦争終戦。戦後は日展委員も務めるが、体調を崩し、大規模展への出品はほとんどしなくなる。
1974年、老衰のため死去。享年88。
1885年、現鳥取県日野町にある光徳寺の長男として生まれる。以降、9歳まで母の故郷である神戸で過ごす。
1894年、京都・東本願寺の衆徒として僧籍に入る。
1901年頃、京都の日本画家・谷口香嶠に師事する。
1905年、一年志願兵として騎兵連隊に入隊、日露戦争に見習士官として従軍する。
1909年、京都市立絵画専門学校に入学するが、まもなく退学。東洋美術研究のため中国に渡る。
1914年、第8回文展に初出品する。翌年、師・香嶠を亡くす。
1916年、京都の日本画家・山元春挙に師事する。
1918年から2年半余りかけて、山陰、南紀、北海道を巡歴。3冊の画文集を刊行する。
1920年、年末に神戸から出航し2年半にわたり外遊。計17ヵ国を巡る。
1926年、要請を受けて日本美術の紹介をするため渡米。講演や個展を行う。
1930年、第11回帝展に《愷陣》を出品、推薦(永久無鑑査)となる。
1937年、日中戦争に際し、東本願寺の委嘱を受け慰問使として従軍する。
1943年、陸軍によりビルマに派遣され従軍。翌年には代表作《國之楯》を完成させるが、陸軍に受け取りを拒否される。
1945年、太平洋戦争終戦。戦後は日展委員も務めるが、体調を崩し、大規模展への出品はほとんどしなくなる。
1974年、老衰のため死去。享年88。
<目次>
総論 小早川秋聲 その画業と作品
第1章 はじまり――京都での修業時代
第2章 旅する画家――異文化との出会い
第3章 従軍画家として――《國之楯》へと至る道
第4章 戦後を生きる――静寂の日々
落款・印章
総論 小早川秋聲 その画業と作品
第1章 はじまり――京都での修業時代
第2章 旅する画家――異文化との出会い
第3章 従軍画家として――《國之楯》へと至る道
第4章 戦後を生きる――静寂の日々
落款・印章
「國之楯」が見たくてを見に小早川秋聲展へ。
小早川は、従軍画家兼東本願寺の慰問使として1931年の満州事変以降派遣され、
従軍中に戦死した兵士の火葬で読経供養もした日本画家。
金カム的に言うと、鯉登少尉の一つ上の1885年生まれ。
一年志願兵として騎兵連隊に入隊し日露戦争に従軍。
一年志願兵は、志願したのち1年間は兵役に就き、退役後は予備役として年次訓練を受ける。 階級が将校なので軍装は官給品以外自前。
そのため資産のある者の子弟しか志願できない。
年次訓練で階級が上がり、大正期の美術雑誌では「陸軍中尉」と紹介されている。
この作品は京都霊山護国神社の所蔵で、
鳥取県の日南町美術館に寄託しているため、
なかなか外に出てくる機会も実物を見る機会もなかった。
当初、遺体の周囲には桜の花びらが描かれていた。
題名も当初は「軍神」。
その後「大君の御楯」に変え、さらに戦後「國之楯」に改題。
身体上には桜の痕跡が残り、うっすら見える円弧は墨で塗りつぶした跡。
こちらは下絵。並んで展示されていた。
『露営之図(明治39年、1906) 鳥取県日野町所蔵』は
暗闇のなか焚き火を囲む兵士たちをシルエットで描いた
日露戦争に従軍したの際のことを描いた作品だと言われている。
小早川秋聲作『露営之図』(日野町蔵)
小早川秋聲作『御旗』(京都霊山護国神社蔵(日南町美術館寄託))
《虫の音》1938年
は存在はわかっていたものの行方がずっと不明な状態で、
現存すら怪しまれていたところ、
今回の展示に合わせて行われた調査で再発見された作品。
戦いのさなか、休息をとって眠っている兵士たちの姿が描かれていまる。
小早川秋聲作『くままつり 北海道巡歴中所見』(個人蔵)
秋聲は1920年1月〜3月に北海道を旅し、アイヌの人々を取材し描いている。
『くままつり北海道巡歴中所見(1920年)』は白老のアイヌの集落を描いた。
『追分物語(大正後期)』はアットゥシの下に赤い和服を着たアイヌの女性。神威岬が以北女人禁制の地とされ、男女がここで離ればなれになることに着想。
『くままつり北海道巡歴中所見(1920年)』は白老のアイヌの集落を描いた。
『追分物語(大正後期)』はアットゥシの下に赤い和服を着たアイヌの女性。神威岬が以北女人禁制の地とされ、男女がここで離ればなれになることに着想。
1920年末、30代半ばになって、秋聲はヨーロッパへ。
中国、インド、エジプトを経由して、ヨーロッパにたどりつき、
グリーンランドにまで足をのばした。
エジプトを描いた、
「エジプト ミイラの回想」(1923~1924年ごろ)と、
「エジプト ミイラの回想」(1923~1924年ごろ)と、
「黙」(1931年)は「國之楯」と構図が似ている。
ピラミッドとエジプトの棺が幻想的に描かれている。
横たわる棺と遺体と。
ーーーーー
展示内容、キャプションに齟齬があったたため、
この間違えがあったのは、展示のまだまだ序盤。
ピラミッドとエジプトの棺が幻想的に描かれている。
横たわる棺と遺体と。
ーーーーー
展示内容、キャプションに齟齬があったたため、
「どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか?」
監視のスタッフに尋ねたところ、
「わからないので知りたければ、全部見終わってから、
入り口に戻って、受付の案内の人に聞いてください」と。
この間違えがあったのは、展示のまだまだ序盤。
見終わってから、自分で受付で行って聞けと??
レシーバーも持っていたし、
学芸員などに連絡して、回答などを聞いてくれるのが
通常の対応だと思っていたので、そういう対応はしてくれないのですか?
と聞くと、ここは違うようで、
レシーバーは係員の連絡にしか使わないからそういうことはしないとのこと。
そーですか。
私、プチっと切れてしまった。
(ステーションギャラリーは一階が受付で、3階から展示が始まるので、
導線がわかりづらいし、上がって降りるのに時間がかかるのです!)
速攻で入口に戻り、受付の人に
「こういう対応されて、ここまで降りてきた。
見始めてすぐぐらいの展示なんだけど、キャプションの間違えがあったので、
どちらが正しいのか知りたのだけれど、
学芸員さんに聞いてもらえないのですか?」
どちらが正しいのか知りたのだけれど、
学芸員さんに聞いてもらえないのですか?」
と、かなり憤慨気味にお話したら、
やはり、監視スタッフの対応は間違っているとのことで、
学芸員さんを電話で呼んでくれ、
やはり、監視スタッフの対応は間違っているとのことで、
学芸員さんを電話で呼んでくれ、
担当の学芸員が休みとのことで別の学芸員さんが裏から出てきてくれた。
その学芸員さんと一緒に展示品のところに戻り、
その学芸員さんと一緒に展示品のところに戻り、
ここが間違ってると思うと説明したところ、
やはりおかしいことに気がついてくれたのだが、
担当ではないので正しい答えはこの場ではできないとのことで、
後日連絡をくれることに。
私が、この展示を見に行ったのが、
展示会期ギリギリで、次の日までだったのだけど、
それまで誰も気が付かなかったのか。
今更キャプション直してもというか、
担当休みだからそんなことできないだろうし、
間違ったまま展示終了だったわけですね。
まぁ、後日メールで回答がきたのだけれども、
間違えに関しては謝ってきたけど、
対応については、全く謝罪がない文章だったよ。
正直、良い展覧会だったのに、
ステーションギャラリーにはがっかりした。
---------
このたびは、
一昨日、会場にてご質問いただきました、
正しくは、「〇〇〇〇」
書籍の上の壁の解説パネルの文中にある「〇〇△△」
ご指摘をいただくまで気が付かず大変申し訳ございません。
訂正してお詫びいたします。
東京ステーションギャラリー