さらーと、一時間ぐらい見てから、
この日は、13時と、15時から、
ボランティアによる、案内ツアーがあったので、15時からのに参加しました。
私ともう一人、二人だけだったので、
色々と質問しながら、たっぷり16:30まで。
このお庭の、銀杏の木と三人冗語の石は当時のまま。
薮下通り側入口には「門の敷石」が残されています。
展示室の入り口に、台座を新調して展示されています。
沿革・歴史
観潮楼は、鴎外の没後しばらくは家族が暮らし、その後は借家となりました。1937(昭和12)年に借家人の失火により母屋の大部分が焼失。1945(昭和20)年には戦災により、胸像、銀杏の木、門の敷石、三人冗語の石以外はすべて焼失してしまいました。
この日は、この企画展の初日だったので、
ガイドさんも、いつもの文学者としての鴎外の展示とは違い、
医師としての展示は初めて見る物の多いとのことで、
細かいところまではまだ把握していなかったようでしたが、
普段の展示の様子とかも話してもらいながらの説明は、
そこまで鴎外を好きなわけでも、
興味があったわけでもなかった私でも、面白かった。
医師だけあって、子どもの食生活にもかなり気を使っていたのですね。
護国寺から東京国立近代美術館に寄託された、
重要文化財の「騎龍観音」を描いた、
「原田直次郎」に、冊子の挿絵などを描いてもらっていたのとか、
初めて知りました。
ググったら、2年ほど前に企画展をやっていたのですね。
特別展「鴎外と画家 原田直次郎 ~文学と美術の交響(シンフォニック)~」
文豪森鴎外は、小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医など多方面で活躍しました。その中には、美術に関わる一面もありました。
明治17(1884)年から明治21(1888)年、鴎外は陸軍衛生制度調査と軍陣衛生学研究のため、ドイツに留学します。ドイツでは、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンの各地に滞在し学びました。各地では、美術や音楽、演劇などの西洋芸術に出会い、これらが、鴎外の帰国後の幅広い活躍の礎となりました。
ドイツでは、人との出会いもありました。特に、ミュンヘンでの画家原田直次郎との出会いは、鴎外が美術に興味をもつきっかけとなりました。原田との親密な交流は、お互いの青春を彩る大切なものとなりました。帰国後の鴎外の文業に対して行った原田の数多くの挿画、デビュー小説ドイツ三部作の中に色濃く残る原田と過ごしたドイツの日々は、鴎外の原田に対する思いの深さを示しています。そして、原田の代表作である大作《騎龍観音》に対する批判に対して鴎外が執筆した「外山正一氏の画論を駁す」は、医学士鴎外を美学の大家として印象付けるものとなりました。原田が亡くなったとき、鴎外は遠い小倉の地に赴任中でしたが、その死を悼む文章を新聞に寄せています。それは、血気盛んな鴎外の前半期の活躍、青春時代の終焉とも重なります。
明治42(1909)年に開催された原田没後10年記念の遺作展では、鴎外は発起人として奔走しました。翌年に発行された、この遺作展の出品作品を収録した『原田先生記念帖』は、鴎外と原田の友情の結晶ともいえます。
本年は、原田直次郎の生誕150年にあたります。鴎外と原田の交流と友情を軸に鴎外の旺盛な美術活動をご覧ください。